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以前著書について少し触れた哲学者の池田晶子さんが逝去されました。合掌。 氏の著書との出会いは大阪梅田の紀伊国屋書店でした。中途半端な時間に行った記憶があるので、おそらく仕事の徹夜明けで帰宅する途中に立ち寄ったんだと思います。記録を読むと1991年となっているので、もうずいぶん昔のことです。手に取ったのは「事象そのものへ」で、威勢のいい文章の方だという印象でした。とびきり切れ口の鋭い書き方で、主に現代思想を標榜する人たちを正面から批判する姿がすがすがしいものでした。 その著書はいくつかのパターンに分けられると思います。 ・ 「考える人」、「~ソクラテス」のような、過去の哲学者の<姿勢>の再評価 ・ 「14歳からの哲学」のような、哲学的思考の啓蒙 ・ 「考える日々」のような、時事批評を装った哲学エッセー いわゆるニューアカの人たちは氏を一斉に無視しました。言論で勝てないとわかっていたからでしょう。小林秀雄の時と同じように、彼女が亡くなってから賑やかに批判するんでしょうが、もうそういう軽佻浮薄ぶりにはうんざりです。 そんな輩がいい気になって批判するヘーゲルを、池田氏は思考背景に置いていました。「あれこれ批判する人がその対象をほんとうに理解しているかどうかは、ほんとうに理解している人にとって一目瞭然である」という当たり前な事が氏の強さの秘訣だったわけです。しかし「いつかヘーゲルをきちんと現代語訳する」と いう宣言は果たされませんでした。残念なことです。 「当たり前なことばかり」という著書でも述べていたとおり、この世の「何かしらのおかしさ」の原因は、ちゃんと順序だてて考えないことによる 偽問題であると看破していました。だから「悩むな。考えよ」と繰り返してきたのだと思います。哲学界からもほとんど無視されてきたようですが、氏の登場後いかに多くの初心者向け哲学書が増えたかがその影響の大きさを物語っています。形而上学の再評価などは岩崎武雄氏以来の出来事ではないでしょうか。池田氏の蒔いた種はそ知らぬふりをして育って行ったようです。 どれだけわかりやすく伝えるかが氏のテーマのようでした。それはもちろん有意義であったのですが、言語化が難しい本当の核心の部分を、難しいなりに書かれることはありませんでした。著書を読んでいて、もう一歩その奥を知りたい、という隔靴掻痒の感が残ってしまった印象はぬぐえません。もっとも池田氏は「そんなことは自分でお考えなさい」と、この世ならざるあの世から笑っているのかもしれません。
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